写真日記,  思想、哲学

感覚と思考の追及

色々と探索するのは面白い事だが、最終的には自分自身の内部探索に行き着くことに気がついた。

まず分かる事だが、最初にあるのは言葉の壁だろう。知覚についての説明は、言葉によって行われるわけだが、実のところ、言語とそれ以外の感覚には、互換性は乏しいと言える。世界がモノクロに見える人がいたとする。彼、彼女に色を言葉として伝える事は可能だろうか?これに関しては、人それぞれの感覚差を人に伝える難しさと言っても良いかもしれない。個人的には、知覚に関する事の説明としては、視覚であれば、視覚芸術が優れているのではないか?と思っている。そこから、視覚的に哲学するというか、思考探求することで、物事を一歩進めることが出来るのではないか?

例えばだが、意味ありげな絵の配列によって何が見えてくるだろうか?ぼくは、一応、作品については、いつもどこかで考えていたりする、それが実を結ぶ事があるとしたら、現実世界で知覚が感じた体験そのものだと言えるかもしれない。

既にあるものというか、既に作品として具現化しているものを引用して、作品の意味として位置付けるような方法も存在する。それは知識を構成して作品を構築するには、一つの手段になり得る。ただし、ぼく自身が考える問題として、この手法はシンボリズムによるものであり、むしろ言語的要素が強く、そういう意味では知覚の探求を遠ざけるものだと思える。あと、果たして、そのシンボルに相当する体験を、果たして作者が得たのだろうか?そういう意味で、その表現の再現性は低くなってしまうのではないか?そうなれば、たちまち作品の強度そのものが危ういことになるのではないか?

実のところ、人は、一生うちに、同じ視覚経験をすることが無い。同じような経験をしたと思うのは、実は言葉がそうさせているのにすぎない。何故なら、言葉はシンボルの集合体だからだ。非常に物事を簡略化させている。

しかし、思うのは、そこに生じる誤解であろう。この複雑な世界を言葉で表す事は可能だろうか?例えば、この一枚ですら、言葉で言い表す事は困難だ。ただここに並べた写真によって、何か身体的な何かを感じることが出来る。

この連鎖によって、意味を見出だすことは可能だろう。それを言葉で表す事は困難だが、視覚的に読み取った集合体を、後に言葉で簡素化することは可能かもしれない。ただ、その複雑さそのものを理解するには、視覚的なモノが必要になる事は、言うまでもない。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:696969bara@gmail.com(マネージャー月影)

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