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能力主義と表現

ぼく自身は、ある意味努力をしてきたと思っている。ただ、その前に、常に立ちふさがっていたものは、能力主義だと言える。ぼくが、どんなに頑張っても学業ができるわけではないし、それに時間を費やしても何ら成果が無い事も、今は分かっている。素養の無い部分がまったく伸びないとは言わないがわずかだと思う。ただ、そう言いながらも、ぼくは少なくとも40数年間は能力主義の奴隷であったし、今後もどうなるのか?に関しては怪しいとも思っている。

ぼくは、20代ぐらいからか、ある種の能力において秀でていると、他人に言われることもあったが、それは非常に危ういものだった。ぼくには、集中力という点で問題があり、それを修正しようと努力した。というか、無謀な事に長期にわたり同じ作業を繰り返すアニメーション等に手を染めた。これに関しては、努力ですべてを埋め合わせる事が出来ると思い込んでいたわけだが、それはどうやっても出来なかった。更には、体力面での消耗が激しく、事実としては、好き嫌いに関わらず向いてはいなかった。しかし、中途半端に成果を出し、予想外の人物などからのオファーなどもあり、ぼくは大いに勘違いしたと言える。結果としては、ぼくは健康な体を失っただけに終わったのかもしれない。ただ、現在の認識に至るまでにおいては必要な努力だったのかもしれない。
うすうす気がついていた事だが、ぼく自身は思考能力とアイデア的な部分では長けていた。その事に関しては気づかないフリをしていたが、今を思えば、その部分を伸ばすべきであった。
なぜ見えないフリをする必要があるのか?に関して言えば、それは努力による産物ではないからだ。あと、「できる事をひけらかすな、それができる事は偉くもなんともない」というようなことを親から教わっていたこともあるかもしれない。まぁ、偉くもないというのは、運の問題でしかないのであり事実だろう。しかし、それが長い間、尾を引いたのは、能力もないのに、能力主義に洗脳されてしまっていたぼくの愚かさとでも言おうか?”ぼくができる事は、必ず努力による産物でなければならない”おそらくは、そういったある種の道徳的考え方が世の中に蔓延しているわけだが、ぼくも多分にもれずそういった意味での能力主義に支配されていた。

ぼくが、決定的に考えを改めなければならないと感じたのは、重度のうつ病で入院してからの事だ。というか、能力が無い部分をだましだまし使えるほどの体力も残っていなかったのだ。
実は、ぼくがアニメーション作家をしていた時代に、ある賞に写真で推薦されたことがあった。ぼくは、ただ日々のストレスの発散で写真を撮っていただけだったが、写真に目をつけられたのだ。それも、ブログの日記用のものだ。ぼくは、写真家ではなかったのだから、それに関しては責任が取れないので、丁重にお断りしたが、そこにあった盲点こそが重要な事だったのだ。
人間には、努力云々ではなく、遺伝レベルで才能の有り無しというものがある。今日的な平等をうったえる社会においては、残酷な現実だし、多くの人が、自分の隠れた能力に関しては気がついていない。気がつかない理由も簡単な事だ。できる事に関して、人はそれほど苦労しないのであり、適当にやっていても出来るという問題がある。自分が努力をしてこなかったのだから出来ているわけがないという、ある種の道徳観からくる錯覚があり、ほとんどの場合は自分の強みに関して気づくことは無いのだ。これは、好き嫌いをこえた能力なのであり、同じ努力をするのならば、そこにエネルギーを注いだ方が、よほどに楽に生きることができるであろう。

ぼくに限らずだが、はっきり言える事は、この世の中は平等ではないということだ。もちろん、それを諦めて思考停止することに関しては反対だし、何らかの形での是正というものは必要な事で、実現不可能だとしても、それは社会の課題として考え続けなければならない事だ。いくらかの能力の違いはあれど、それが開花すれば、社会に対して還元しなければならないと思っている。それもやらないのであれば、世の中は、この先どうなるのか?今はなんとなく見えているが、たとえば専制主義の時代は、民主主義の時代よりもはるかに長いし、かつて人類は民主主義を経験しなかったわけではない。
ただ、個人においては、自分の強みに関しては、素直に認めた方が良いという事ははっきり言える。ぼくのような中年世代においては「できない事をやれ」というのは当たり前の事だった。しかし、それは、今を思えば罠だったとしか言いようがない。それをすることで、より多くの人に足枷をすることができるからだ。それこそ、支配者が、今よりももっと強かった時代に近い過去の話だ。果たして、その時代の、ある種の能力に関する道徳観というものに、どれほどの信用がおけるものだろうか?支配者にとって、民というものは「生かさず殺さず」が理想の社会だったのだ。

時代は変わり、今は新自由主義の世界に様変わりした。能力主義の台頭で、支配層は自らの社会的バックグラウンドも含め、負い目を感じる事も無く、「私が成功したのは、私が努力をしたからだ」と大手を振るって言える世の中になった。成功は富であり、富める者は、それをバックグラウンドに、更に富める時代である。その論法で言えば、世襲もまた才能だと言えるのかもしれない。それによる専制のような時代に突入していると思う。つまるところ、時代は、このままでは中世のような時代に近づくというか、そういった格差社会という未来が見えるような状態になっている。
重要な事だから言っておくが、例えば”新たな表現”というものは、現代においては、さして重要ではなくなってきている。事実は、”新たな表現”というものは、企業の言うところの”イノベーション”なのであり、その根源ともなる表現においては、本来非常に重要な要素であるはずだが、支配層の認識は、そこには至っていないように感じる。これは、社会の劣化にも関わる重大な問題なわけだが、現実としては、新たな表現よりは、今日的な資本主義の代弁のほうが重要という立ち位置なのだと思う。つまるところ、民の堕落に関しても、歴史的に見れば重要な要素だと言えるし、煙に巻くというのも重要な事かもしれない。
専制と言ったが、表現というものは、支配層のプロパガンダの意味合いも強いと思う。その現象を目の当たりにしてきたのは、以前からあるが、特に90年代からの事だろうか?新しくなくても、支配者が新しいと言えば新しいのだ。その面に関しては、ぼくはさして洗脳はされなかったようだ。今日良いと言われているものに関して、大して興味がないのだ。だから、多くの偽りに対して、普通に「インチキだ」と言う事ができる。つまり、「あんなのを額面通りに受け取っても、自分に何を利するものではない」という事には気づいていた。言わば、軍国主義、共産主義等による制度が作らせた芸術との類似性というものにも気がついていた。その後の時代の変化を見ても明らかだろうが、現在は当事者なので、もう少しそれが認識されるのには時間がかかるかもしれないが・・

一つ言える事だが、富める者は、そのバックグラウンドを考えれば、あらゆる意味で能力面で長けているというのが今の社会の現実だと思う。その中で、持たざる者がどうするべきか?に関しては、能力主義に侵された洗脳を取り払い、自らの強みをなんとか見つけ出す事が一つの考え方としてあるように思う。それが見つかった場合は、何らかの形で社会に還元する。おそらくは、その倫理観が無ければ、格差は決定的になり社会は崩壊すると思う。資本主義にも倫理観が試されているように感じる。

こう考えているうちに、マイケル・サンデル氏の「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を読んでみることにしてみた。興味はあったのだが、他に何かと忙しく時間が無かった。色々と再確認してみようと思う。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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