思想、哲学

ぼく自身の解放

最近、生きる事の意味不明さに悩まされ続けている。
日常的に、「死ね!」とか「クソが!」と。とっさに言ってしまう日々だ。何が原因かは分からないが、これまでにあった事を突然思い出すのだ。これは、いつまで続くのだろうか?
ぼくは、精神病院に行き、新たな事実が分かるたびに、これから生きていけないと思ってきた。それまでは、努力すれば何とかなる、出来ないのは、努力が足りないだけ。という、自己洗脳、或いは家族、社会からの洗脳のようなものを一種の救いのようなものだと見てきたのだ。
このように文章を書いているが、カラクリがある。こういった文章は、全体が見えているから書けるが、書いた後、前に何を書いたのかは、あまり覚えていない。前の行、その前の行を見て、つじつまが合うように並べている事と、極力、こうして打ち込むという訓練によって、何とか成立させている。ぼくの頭は、紙に書くことは、出来ないように出来ている。たぶん、頭の中に記憶はあるのだろうが、その引き出しを開く能力が、著しく低いのだ。そのせいなのか、ある種の疲労を抱えている日には、突然漢字がすらすらと書けて驚くのだが、それを意識した時点で、その能力は再び閉じてしまう。

たった今も、何を書こうと思っていたのか、よく分からなくなってしまった。ここから、新たな文章を考える必要がある。

この時点で、想像出来たならば、新たな文章の流れを作ることも可能だし。作品も、そのようにして作っている。次の瞬間には、ぼくが何を作りたかったのか?を新たに想像するのだ。
現在残していた写真というものがある。これが何だったのか?については、ぼくはよく覚えていないのだ。覚えていなければ、ぼくが何を思っていたのか想像する必要がある。何だろう?感覚としては分かってはいるのだ。
ともかく、ぼくが残したイメージは、ぼくの記憶の断片ではあるのだろう。これを、パズルのように組み立てて、ぼくが何を考えていたのか想像する。この繰り返しをすることで、イメージを固め、「そうだったのか!」と自分を確認する。

ぼくが確認する自分というものは自我というものだろう。ぼくの自我がどう思っているのか?というところまでが、作品の核の部分だが、そうではなく、自我のように、他者にも自分の経験そのものにも触れることが出来ない認識するものというものが存在してるのは、何となくわかる。
彼と言うべきなのかどうかは分からないが、ぼくの自我、ぼくの作品、ぼくから見える世界を認識する何かは、ただ、ぼくという感覚を通して世界を認識している。
感覚を認識するものとは、何者なのだろう?それ自体は、認識の対象にはなり得ないのだから、それはある意味、ぼくという自我が思っているよりも高次元の存在なのは分かる。
感覚というものは、どうあがいても科学的に説明できないものだ。それが、何故痛みなのか?どうやって説明するというのだろう?僕の体の、物質的な要素の中に、どのように痛みを感じる要素があるというのか?そもそも、何故見えているのか?化学反応で色を認識など出来るというのだろうか?
認識するものは、脳の中にあるのではないだろう。たぶん、脳と、他の器官が繋がっていないと認識というものはあり得ない。だから、体の中のどこにあるとも言い難いものだったりする。

たぶん、苦しみというものは虚像なのだろう。本当は苦しくはないのかもしれない。
では、客観的に見るために、他者を見てみることにすると、他者も何らかの苦しみを抱いているように見える。
動物はどうだろう?痛いと痛そうにするし、美味しいものを食べれば喜んでいる。
一つ感覚として異なるものと言えば、ぼくの自我が感じているようなある種の苦しみのような感覚は無いのかもしれない。ぼくよりも現在を受け入れている。
実は、動物も、特に、ぼくが飼っているインコなどは、他者と自分を比較していることは知っているし、もし彼だけが美味しい餌を与えられなければ妬むのだ。それを繰り返せば、鬱状態にもなる。愛されたいと思っている事も分かる。
ただ、突き詰めて考えていくと分かることだが、彼らは愛されれば良く、本能的欲求が満たされていれば幸せだと感じており、他者と自分の認識形態そのものの違いを嘆いたりはしていないということだ。片目が無くても、片足が無くても、そのこと自体は他者との比較の対象にはならないということだ。もちろん、彼らにも障碍者はいるが、発達障害があるとしてもそうだ。
もし、ぼくが、人間としての自我を持ったままインコの姿をしていたとするならば、ぼくはその状況を嘆く事だろう。当然比較対象はインコではなく人間なわけで。しかし、それは想像にすぎず、そもそもインコの体にそのような認識形態の違いを不幸だと感知する感覚が無いのであれば、ぼくが嘆くことは無いのかもしれないが・・
そういった意味で、ぼくなどよりは、より高位な存在であり、それ故に幸せを獲得しているのかもしれない、彼らの体にも認識するものはあるだろうが、そこから表層の自我という感覚の中に、自分の認識形態の違いを他者と比較するという感覚が無いということだ。

たぶん、ぼく自身が、その違いにより生きづらくなければ、ぼくの自我というものは、ある意味満足していたのだ。その異様な状況に気がつかないのであれば、ただ愛されていれば幸せなのであり、その他本能を満たしていれば満足なのだ。
ただ、多くのマイノリティーが感じているように、ぼくたち人間の自我というものは、その違いを感じて苦しんでいる。その解決方法は何だろうか?人間が救われる方法は?
たぶん、それは、ぼくが、ぼく自身を解放させることである種の答えは見つかるだろう。ぼくは、ぼく以外のマイノリティーに、その様子を見せることで、何らかの解決方法を共有できるはずなのだ。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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