一人でも好きな人がいれば良いのか?或いは
ぼくは、映像と写真の2ラインを考えているが、それがいつまでなのかは分からない。一画面で済ませる映像と写真とでは、見せる対象は異なったりする。
ぼく自身は、基本的には、自分が作りたいように作るタイプだが、それは年月とともに他者と解離していくという現実がある。先に進もうと思えば、人は案外ついてこないものだ。理解はしやすいもののほうが、案外支持を受けたりするし、それに深みがあるとも思われたりもする。そう、相手は他者なのだから、ぼくが理解のスレスレを行こうものならば、それはもはや理解できないものになる。そういう意味では、もはや、表現の進化というものは考えなくても良いのだろうか?
映像と写真の2ラインと言ったが、両者には決定的な違いがある。機械の使い方等は、似ていたり同じだったりするわけだが、動くとか動かないの話ではなく、見せる対象というものが大きく異なる。
1画面で済ませるような映像の場合は、現代の状況から考えると、映画形式が最も有効で、複数人数の囲い込みが必要であり、そこにはイデオロギーもあり、関係として1対1はあり得ない。対する写真は、場合によれば、1対1が成立する。要は、アートもそうなのだが、そういう意味では、作品を大勢に対応させる必要が無いとも言えると思う。
ただし、ある一定の複数人数の人の支持を集めようとするならば、似たような表現が望ましいのかもしれない。不特定多数の最大公約数のようなものが求められるからで、それは、現代の世の中、或いは、特定コミュニティーが共有する意識のようなものに委ねられる。個人的に思うのは、今最も重要視されているのは、資本の代弁のようなもので、そうなると、映像以上に最大公約数の中からの最適解を求められる事になるかもしれない。
ただ、ここを見分けるというか、それによって作品を制作する事は極力避けたい。まず最初に、それに対するストレスがあるのであり、ぼく自身の個性の消失につながる可能性もあるからだ。
ぼく自身が目指すのは、「格言」ではなくて、「複雑なものを複雑なものとして見る」事だ。ぼく自身の経験によるものだが、「格言」というものは断定的で、ある意味攻撃的なものだ。あるケースでは、攻撃性というものも有効だと思うが、ぼくが思うのは、マイノリティーに対する理解というものがあり、それは複雑なものであり、一言で済ませれるようなものではない。例えば、それは、「善」や「悪」で一言で括れるようなものではなかったりする。
しかし、多くの表現が、これまでその二元論にとらわれていたことはたしかな事のように思う。
しかし、ソフトな考えを力強く表現できるのは、視覚芸術の優れた部分でもあるように思う。