神よ!
ニーチェの「神は死んだ!」から、随分と時間が経ったと思うが、例えば西洋の何かを見て、これは良いものを見たと思うとき、そこに神の存在を感じる事がある。いや、感じる事があるなどというものではなく「ある」といったほうが良いレベルの話なのかもしれない。そして、そこに深い感銘を受ける。神は死にながらも、結局のところ死んではいないのかもしれない。これは、だれかが超越していて神にも等しいとか、そういったレベルの話ではなく、何気ない随所、生活の一部、そこから見える景色、そして見えている動物や人にそれを感じるのであって、精神の芯の部分でもあるような気がする。人間は迷いながらも、実在しないと認めたはずの神の要素に精神の芯を持っていて、「迷い」の中の光明、言わば「焦点」になっていると感じる。だからこそ、芸術性の高いとされるものには「迷い」をはじめ「苦しみ」などのネガティブな精神作用を中心に纏められているようにも感じるのかもしれない。そして神という何か分からない存在を芯に持ちながらも、それにリアリティーを感じている。
なぜ、このような事を書いているのか?についてだが、ぼくの芯の部分がよく分からないからだ。「神が死んだ」件に関して言えば、ぼくたちのような日本人のほうが、そのような状態になってから久しいと感じる。少なくとも、ぼくに関して言えば、そのような存在を信じる事ができない、実は神が存在したとしても、人間を中心とした世界を創るような、そういったものではないという考えに収まる。いや、神を背後にした作品から感銘を受ける以上は、精神の中に似たものがいるのかもしれないが、それは、そもそも唯一神のような強い神でも無かったし、人間の都合によっては退治される低度のものでもあるし、すべてを見渡せる「神の目線」そのような全能の力を感じるような文化の中に生きているわけでもない。強固に自分たらしめるものが希薄であり、一体感を感じるような大きな何かを感じるわけでもない。そして、弱い人間というものが自らに自信を持つための代替品として、経済や他者からの承認というものがあるのかもしれない。事実としては、そういった雑音がひしめいているのが、ぼくの生きている世界であるといえば、それは疑いようがない。
ぼくにとってのリアリティーはなんだろうか?何か深いものを感じさせる「何か」はあるのだろうか?それを見つけ出そうとしてはいるものの回答は得られず、先ほど述べたような雑音こそがすべてであるという誘惑もある。そして、それが自分にとって、非常にしんどいものであることも理解している。
一つの回答として、自分なりに理解しているものとして、ぼく自身の「見栄」のようなものから遠ざかる事がある。ある種の苦悩は自分の充実度や承認された姿を見せる行動によって引き起こされている。その見栄が、現在の自らのポジションを維持している事も理解できなくはないが、もう一つ言えば、ぼくは、それほど立派なポジションにいるわけでもない。そして、更に悪いポジションに行き着くのではないか?と恐れている。そもそも、悪いボジションというのは何だろう?
ぼくは、幸せの回答を探しているのかもしれないが、その姿は見えないし、そう感じる事があったとしても、とても儚いものだ。そうではない何かを導き出そうと思うとき、必要なものの一つは、まずは「見栄」のようなものを手放すことからなのだろう。必要以上の事を人に見せて、自分は立派なのだと人に伝えようとする必要が無いということだ。
何気ない目線を、何かにむける。何かを受け入れる。それだけでも救いはある。それを見て、何か幸せのヒントを誰かが得る、それで良いのではないか?