作品としての写真を初めて考えてみた
目次
静止画作品の限界
ぼくの場合、作品というのは、いわゆる映像作品だったり、絵であったりで、写真は、その中には入っていませんでした。
世の中でよく見るのは、名所の風景であったり、人物であったり、建物であったりで、言うならば、アカデミックな絵画に近いもので、それは、ぼくがやりたいことではなかったのです。
ただ、映像作品に関しては、ぼくの場合、アニメーションが多く、それは酷く苦痛をともなうものでした。
そもそも、始めたのも遅く、30代になってから。他の多くの人は、10~20代が多く、ぼくの場合、もともと体が弱く、体力がありません。
絵画に対する限界を感じた時、それを行う必要が、自分の中にはありました。今や、絵画における実験的な試みというのは、無意味化しかけていて、それ単体で完結させることは、言わば、写真における、普通の風景や、人物同様、ぼくの中に、新しい風を吹かせるようなものではなくなっていたのです。
個人的には、それらに、何か複合的な要素がほしいというか、もう一つの軸である、時間というものが必要でした。
掛け算の問題になりますが、縦×横に対して、縦×横×時間というものは、圧倒的に情報量が多く、まだ未開拓の領域と感じていましたし、それをするならば、ある種のヒエラルキーに参加しなくても、自分自身で世界を開拓することが可能なのではないかと思ったわけです。
自閉症を抱えている、ぼくという人間が、ヒエラルキーに参加して、その中での権力闘争を繰り広げるのは、無理だと感じていたこともあります。
同じ様な作品が乱立する場合、その中では、必ず食い合いが生じるとも考えていましたし、その中に優劣をつけるならば、権力闘争は不可避だと思っていました。
アニメーション
ぼくは、絵に時間を加えることにしました。
それは、新鮮でしたが、酷く苦痛を伴うものでした。何枚絵を描いても、その作業に終わりは見えないのです。
年齢を重ねるごとに、その作業は困難になり、あと一歩やりたいというところで、いつも倒れていました。
残念なことに、いつもそこで生まれる妥協というものを余儀なくされました。
このジャンルが、非常に可能性を持っていることは分かります。創造力と体力が続くのであれば、見たこともない世界を開拓できるでしょう。
ですが、昨年、制作によって、ぼくは、致命的なダメージを負い、入院することになりました。
あと、それで出来た作品というのは、時間に追われ、多くの妥協に溢れたもので、その事は、完成直後に、すぐに理解できるものでした。
その点が残念で仕方ありませんが、時間の中で動ける量は決まっているというか、それをオーバーすれば、体も脳も崩壊してしまいます。
出来ることを最小限に抑えたものの、それでも体と脳はダメージを受け、死に近い状況に陥りました。脳も炎症を起こし、それによって、体や精神も完全にコントロールを失うこともあるのです。
休みなど、ありませんでした。
長い間寝たきりに
この一年以上は、多くの時間、立ち上がる事はままならず、2~3時間ぐらい動いては、あとは寝た状態が続いています。仮に一日動けば、何日かはぐったりした状態が続きます。
多くの構想は思い浮かぶものの、それを実現することは、体が動かなければ不可能な事です。一応メモはしているものの、すべてお蔵入りということになります。
今後体力が戻る保証もない上に、これまで以上に負担を強いるものばかりが、頭の中に浮かんできます。若ければ可能かもしれませんが、歩くのも困難な日が続く中、それをしても出来ないだけでなく、より深刻なダメージを負うことは目に見えています。
ただ、そういう想像をするのは、ぼくの病気のようなもので、そうしなければ、精神を維持することは出来ないのです。
新たな出力先
前述したとおりですが、ぼくは、写真を作品とは認めていませんでした。
あまりにも安易に撮れてしまう事から、ストレス発散のためとか、体力をつけるための散歩の口実と考えていました。
写真という作品っぽいものを出力するすることで、本物の自分の作品が出来るまでの遠い道のりをごまかしてきたのです。あくまでも、ぽいものは、ぽいだけで、それが作品の代わりになってくれるわけではありません。
ただ、わずかな時間でも、何らかの出力を行うことが出来るというのは、考えてみれば、無理が無く、今のぼくには、唯一の作品を作る手段とも考えられます。
これは、ぼくが健康であれば、考えもしない事ですが、もしかしたら、複合的に考えることで、自分にとっての作品を出力することは可能なのではないかと考えるようになりました。
もちろん、写真でも膨大な時間と労力を使うことは可能ですが、今の自分には、それは無理な話です。あと、そういう能力を使えるぐらいであれば、ぼくは再びアニメーション作品を作るでしょう。
それが不可能な今だからこそ、写真について考えることもできますし、それで何が出来るのか想像することも増えたわけです。
そう、ぼくはもう無理をしなくても良いのです。寝ながらでも一度シャッターを押せば、絵は出力されるわけですから。
そして、作品というものはどこかで繋がっていて、ある表現を他の媒体で表現することは可能なのだと思っています。