孤独と作品
作品における孤独性というのは、最も重要な事の一つのように、今は思える。
レベルの高い集団の中に、自分を置くことも重要な事なのかもしれないが、そのレベルが高い集団というものにも平均値はある。人間は、コミュニティーのレベルに引きずられる存在である以上は、その中から出るというのも一つの方法だろう。
孤独と言っても、日常会話や、何気ない生活においてまで、孤独である必要はないと思うが、事、それがアートのような作品であるとするならば、孤独でいることは重要な事だ。まずもって、作品というものは、多くの手数や考え方が必要なものであり、その中の要素が、すべて他人に似るというのは、孤独であるならばあり得ない事だと言える。自ら手法や哲学を組む以上、何らかの独自の要素が含まれていく事になるだろう。これは、アカデミズムが常態化したコミュニティーにおいては理解されない事かもしれないが、考えてもみよう。見ても聞いてもいない事を寸分たがわず同じように道筋を合わせる事は可能だろうか?ぼくには不可能に思える。手法や考え方の組み合わせというものは、ほぼ無限というぐらいにある。
既成概念を打ち砕くという意味では、そこは重要な点ではないだろうか?これは、手順を知っていれば非常に困難な事なのだ。既に、作品を制作するためのツールが手元にあるならば、それを新たに作り出す事などは必要にないのだ。それを、あえて捨てるという事も、アカデミズムの養護というものを考えると、暗黙の了解として無いのではないだろうか?何故なら、それも商業なのだ。わざわざ不利益を考えるような事は、平均化された、コミュニティーとしては考えにくい。
ぼくは、日本の一地方で、とくに他の写真作家との交流を持たずに生きている。ぼくの疑問だが、何故地方の作家が突出した才能をしるさないのか?一つは、コミュニティーのレベルに合わせている事、そうなると、圧倒的に情報量が都会に比べて少ない事が考えられる。その路線から突出した作品を作り出す事は困難であることは想像できる。ただし、孤独であるならばどうだろう?自らの考えを練るという意味で、他者から自分を隔離するのであれば、それはどこにいても同じような事ができるということだ。
どちらにせよ、ぼくは自閉症スペクトラムという足枷があり、社会になじむ事そのものが困難だ。だとしたら、その圧倒的に不利な状況を逆手に取るという意味で、あえて孤独に身を置くという方法も考えられる。それ以前に、何を思わなくとも、孤独になる事は宿命づけられているように思う。
ぼくは、生きる上、つまりサバイバーとして、作品というものを考える必要があった。でなければ、ばくは社会から無いものにされていただろうと思う。