ASD(自閉症スペクトラムと)と表現
昨年のぼくは、かなりの覚悟をもって、新しい分野に飛び込んでいたようです。 たまたま、キヤノン写真新世紀を見つけたにせよ、明らかに必勝体制で挑んでいました。備忘録を見なければ、それをもう覚えていませんが。。
目次
ASDである自分から見える表現の世界
LGBTとかのマイノリティに関しての開放の動きは盛んで、一般社会における地位的な平等のようなことはよく言われるものの、ASDに関しては、行き着く先は、アウトサイダー的なもの。。一見開放のようにも見える隔離が待っている。その世界の中では、平等のように、皆才能があるように扱われるものの、外の世界とは明確に隔離されたものであり、最終的に目立つのは主催者であることが多いという現実。光が当たるのが誰なのか?は、明確だ。理由は簡単だろう、それは、その主催者となる人物がインサイダー側の人間であり、つまり一般社会、隔離の外の世界の人物だからと言えると思う。それは、社会貢献として外の世界で脚光を浴びるだろう。 そして、それはArtというものが、Artの名を借りての、ある種の生存戦略のようにも思える。
それは、社会福祉のためであり、地域貢献であり、ASDの解放であり・・・大儀の元、その長である人物と、その下にいる複数の人々、形成上不可欠であるASD等の集団によって、ヒエラルキーが形成される。
逆に言えば、このような大儀が無ければ、Artの存続は、日本という社会においては、もはや危ういのかもしれない。
おそらく、現代という時代は、それが更に進んでいて、例えば過去の印象派とか、それ以降の時代、メインストリームとしてASD等が活躍した時代とは、明らかに異なると思う。 それに対する反発が、作品の原動力にもなっていたのかもしれない。
今後の事を考えると、この崩壊しかけている体と対面する必要がある。今のように活動することは、その後の破滅に明らかに繋がるのは分かる。 どうするべきなのか。
今後、気がついたことがあれば、このページに書いていこうかと思います。
2021/01/04 のFBへの投稿
ぼく自身は、自分がASDであることを恥じてはおりませんが、疑いを持っております。しかしながら、周囲の人に言わせれば、どう考えても異常なのだという。検査結果もそう。自分からは、自分が見えないのでしょうね。自分の持つ感覚というのは生まれてからそうなわけで、他人と入れ替わった事は無いわけで。
聴覚と視覚に、学習障害があるのは分かります。どう考えても覚えていない事が多すぎますし、それに関するトラブルも異様に多いわけで。一つ気がついた事ですが、触覚に関しては、学習障害は無いかもしれないという事。もう少し早く気がついていれば良かったかもしれません。今後は、その部分を優位に動かせば良いわけですが。
ちなみに、多動性や衝動性を抑え、より平均に近づけるような薬は存在するようですが、投薬はしておりません。というのも、そういう薬は、ぼくの優れている部分も抑えてしまう可能性があるわけです。というわけで、睡眠系と鬱系の弱目の坑精神薬を飲んでいるだけです。迷惑かもしれませんが。
排外主義の本を、引き続き休み時間に読んでおります。ふと気がついた事ですが、この排外主義というものの難しい点として、排外主義が嫌いな排他主義者というものが存在すると思います。これは、ぼくの経験上知っている事なんですが、彼らは無自覚な上に、自分が正しいと思っているところに厄介さがあります。その上、ステルス性もあって、彼、彼女らが、一見そういうものには見えないという問題があると思います。
これは、ステレオタイプ的に、右や左、保守とリベラル等で考えられる問題ではなく、人間の根源的な生存本能に由来するところも大きいのかもしれませんが、非常に複雑な問題の上に成り立っているように感じます。
例えば、ぼく自身を中心に置いてみた世界から言えば、ASD(特に高機能型)というものが、見た目としては非常に分かりにくく、それが何なのか人に伝わりにくいという問題もあります。故に、排他主義の対象の1要素であることが認識されにくい。そのため、メディア等も取り扱いにくく、よっていつまでも認識されない。そういう問題も存在すると思います。意識出来ないがために本能的な排他性というものが知らずと現れたりもしている状況。あくまでも経験上の話。
ASDは、才能として扱われる事もありますが、現実としては、必ずしもそうではない事も知っておく必要があります。つまるところ、そういう有名人が編集されて集められている状況をよく見ます。冷静に考えれば分かることですが、たったのあれだけしかいないとも言えます。そして、過去の人も含めてということになります。
編集して集める事で、ある種のレッテルを貼るのは簡単な事です。これは、ネット社会では、顕著に問題化しているのではないかと思います。
病院という現場で、主治医に「ASDは才能なんですか?」と、よく聞いたりします。自分に才能があれば救われるのでは?という希望からの質問ということになります。返答としては、そういう例は見たことが無いということです。仮に中村さんに才能があるとすれば、それは中村さんの特性でしかなく、普通の人同様に才能がある人もいれば無い人もいるということ。これは、比較的大きな病院での過去も含めての話。
入院期間中も、そういった特別な人と出会うことはありませんでした。普通にアイドルが好きだったり、経営者であったり。ぼくから見えた世界は、外の世界に、非常に似通っていたということです。ASD(自閉症スペクトラム障害)という言葉が指す領域は広大で多様であり、実は特定の症状だけを指すわけではありません。残念なことに、この言葉が、多くの人の認識を狭めてしまっているのも確かです。
ASDが仮に才能だとしても、このアカデミックな社会で開花するのは難しいとも感じています。その中で編み出された情報の網の中に入ることは非常に困難だと感じる事があります。この世界では意識や価値観の共有というものが必要であり、ASDの意識や価値観が、そこから大きく外れている可能性があるからです。そういう価値観のズレというものは時代が違えば才能になり得ると思いますが、現代という時代は、必ずしもそうではないと言えるかもしれません。才能というものは、絶対的なものではなかったりすると思います。
とりあえず、ぼくは自分がASDであることを話しています。それを話した後の、他者の態度の変化で、それ(排他性)を読み取っているということ。分かりやすく、それは現れます。むしろ、それは分かったほうが良かったりもします。ある意味、仕方のない事でもあると思っていますし、途中で、ぼくがそういうものであると分かるのも迷惑ですし、その後、一緒に活動できるかどうかの目安にもなるわけで。
複雑な事を複雑なまま、それでも極力分かりやすく物事を構築する必要を感じております。そもそも世の中は複雑ですし、例えば、ASDであることも、ぼくの中の一要素にすぎないわけで、それがすべてではないということ。そういう見方は、他者に対しても必要だということでもあると感じております。
他者に対する共感性の低さ
よく言われるのが、この問題です。
ここ最近、他者に対する共感というものを何とか表現しようとしているものの、本質的に、ぼくがその能力を持っているのかは想像しにくい。
おそらく、他者から見れば、ぼくには共感性は無いか乏しいと見られている可能性が高い。
ただ、他者に、表現として、ある種の共感を求める以上、ぼくにもその能力は必要だろうと考えています。
この点については、今後考えていく必要があると思っています。
また、何かに気がつきましたら、このページを編集して書いていこうと思います。