写真機と現代アート
ぼくは、もともと画家志望だったわけだが、それをやる上で非常に重要な存在としてあったのが写真機だ。例えばリアルな絵、これは、単純に技術自慢をするのであれば、現代でも有効な事だし、モノとして突き詰めるのであれば、写真以上にリアリティーのある絵というものを描くことは、物理的には可能であろう。ただ、合理的に考えれば、描写力というものを素直に受け入れるという意味では、写真によって、特に肖像というものは価値を大きく失ったのだ。
そこから、絵というものは肉体、或いは知覚というものを通した、別のものに変わっていくことになる。ただの描写ではなくなったわけだ。そこからが現代アートへの流れとなるわけで、中心にいたのは、「絵画」と「写真機」ということになるだろうか?この事を考えずして、現代アートというものを考える事は難しい。絵を描いていて、写真機を意識しない事は、なかなか困難な事だ。もちろん1世紀以上の年月が経った事から、ビジュアルから入ったアートというものも存在するだろう。そもそも、言葉の起こりがどこから起きたのか分からなくても、言葉というものによる芸術が成立する以上、その事実を知らなくても、それが出来る事は間違いない。
ただ、その時起こった事件を知る事で、写真は今、何をやっているのか?は想像できるし、現代の写真機であるデジタルカメラというものを考える事も可能になるかもしれない。フィルムの置き換えの装置である撮像素子は、本質的な意味で、写真をCGに変えたということだ。これは、油彩画のようなものをデジ画でもできるのと同じく、データの産物であり、概念的で、たかがCGと言われるアレと同じような配列、ドットで表される絵になった事を意味する。実は、デジタル化された事によって、絵というものは、ドットの配列という形で統合されているのだ。違うのは、データ化されるに至るまでのプロセスだけだ。最終形態としては、同じくCGであり、どちらも写真プリントすることが可能である。
実は、これは事件なのだ、激震と言っても良いが、カメラオブスクラを通した先にあるフィルムに置き換わる撮像素子、それが出すイミテーションは、あまりにも、これまで写真と言われてきたモノに似ているのである。
しかし、これはCGである事を忘れてはならないと思う。その事によって実際の情報量は減ったが、人間の見た目の情報、つまり含まれる意味の事も考えれば、大きく情報量が増す事も意味する。特に、マスクやレイヤーなどの概念によって、写真は大幅にその姿を変える事が出来るということだ。
実は、写真は多くの呪縛から解き放たれる、例えば絵画が描写から解き放たれた時と同じく、より自由を手に入れたとも言えるが、あまりに似ている、従来の写真イメージによって、その呪縛から逃れる事が出来ないでいるようにも見える。特に、日本特有の言葉である「写真」という言葉による呪縛力は大きいかもしれない。
もう一度言うが、あれはCGで間違いない。
アイキャッチ画像は、未発表の絵画作品「柳川交差点」現在のある時点、場所における、三人の同時にある視線というか視野というもの、それぞれの存在の確定的要素についても考えている。それぞれが、存在の証人になっているような意味合いもある。他、パースの歪みなどに注目していただければ、ぼくが如何に写真を意識していたかが分かると思う。
この同時性と整合性を考えるのに、頭がパニックになりそうになりながら描いた事を覚えている