思想、哲学

SNSの問題、もし自らの作品にソフトパワーを求めるならば

SNSのアルゴリズムと思想的先鋭化と妄想

個人的に思うことだが、多くの人はSNSによって、思想的に先鋭化していたりはしないだろうか?検索エンジン等も同様だが、ある事象を検索すると、それと同様の検索をした人々の結果が、ニュースなどの一覧に反映されるとかそういった事によって、自己というものを押し付けられているという感覚に陥ることがある。
ぼく自身の何らかの検索行動で、ぼくの興味というものが押し付けられているという事だが、正直ぼくは平均値と異なるのか、AIは僕にとって興味がないというか知りたくもない情報を押し付けてくる。この事に関しては、反発を覚えるのだが、見ないという選択肢が残されている。
ただ、想像すると恐ろしい事だが、これによって操作された人々が、思想的に先鋭化していき、対立を招くという事だろうか?個人の都合だけで情報を集めた結果、著しく偏った、もはや現実とは乖離したような妄想を抱くモンスターになっている人たちは、果たしてSNS以前はどうだったのだろうか?もしそのような状態ではなかったとするならば、SNSは、もはや民主的なツールとは程遠いものではないだろうか?
そもそも、思想的に、SNSそのものは、建設的な意見を交わす場所としては、絶望的と言ってよいと思う。あるのは、勝つか負けるかの二択でしかなく、そのバトルの消耗の場でしかないという事だ。

他者との対立

これ以上、SNSを多くするべきではないと思った契機だが、もしぼくが、その電子空間の中で自分の意見を述べようものならば、敵対する他者が現れるということだ。その他者というものは、哲学的なところの、建設的意見を求めてくる他者というよりは、ただ盲目的に相手を消し去ろうというような、何らかの発展をもたらす事もない他者でしかないということだ。
その中では倫理観などは崩壊しており、この事に関して良いと思っている人は少ないのではないだろうか?ただ、支配的目線でいえば、アメリカのコンテンツだから、時代に乗り遅れないためにも、この空間に居続けなければならないという錯覚を起こし、ここにいるしかないと思っている人も少なくはないだろう。
情報的に、一方に著しく偏りそれを絶対視する人たちが多く現れるこの空間だが、対立は避けたい人も多くいるはずだ。ただ、対立したくないがために、そういう連中に媚びを売るというような行動も倫理的に良いとは言えない。
この空間の中で起こっていることは、非民主主義的であり自由でもなく、色々な意味で前時代的だと言わざるをえない。
ある意見に対する対立を怖れていてはダメだが、この空間においては対立は、相手を完全否定するか、或いは否定されるか、の単純な二極化しか起こらない状況になっている。

人格攻撃

もし、SNS内で人格攻撃を行うならば、自らもある種の正しい意見を否定することになるだろう。例えば、トランプ大統領批判についてだが、彼がすべて間違ったことをしたわけではないことは、冷静に考えれば分かることだが、彼の人格攻撃に陥った事によって、事のすべては間違っている事になってはいないだろうか?
ぼく自身は、トランプ支持者ではないし、モラルの点においても、彼の考えについて行けるものではないが、彼の任期に戦争が減ったことは事実だと思う。その点に関しては、オバマよりは評価できるところだろうし、再考するべきと思うが、人格攻撃的な論法をとった場合は、考えはさらに二極化し、トランプのやった事なのだから、すべてが間違っているのだという、半ば感情論のような話にしかならない。結論としては支持側と反対側は癒す事の出来ない傷を負うことになるだろう。これによって、良かった政策も見直されてしまう可能性すら出てくるということだ。
事、日本人に関しては深刻で、傷を負った両者の恨みというものは計り知れないものになるだろう。それだけにSNS上での対立は慎重になるべきだが、もし反対派の誰かが、でもトランプのこういうところは良かったよねと言っても、同じ反対派の感情論によってもみ消される事になるだろう。二元論的考えでいえば、敗者はトランプだという事になり反対派は全面的に正しいという事を主張するかもしれない。
実際にあった出来事ではあるが、そもそもトランプは、日本の総理大臣ではない事も触れておく。

あらゆる意見は完璧ではなく、ゆえに間違いはあってしかるべき

この世界は、流動性が無ければ腐敗するように出来ており、ある時代正しかった意見が、いつの間にか間違いになっていたりもする。
当然ながら、今ある意見に関しても、完璧ではなく、実は意見を述べる場においては、間違いがあってしかるべきで、故に対話というものが重要になってくる。
建設的な対話というものは、完璧な合意を得るというよりは、より良い考えを構築する場であると思うが、SNSにおいては、それが難しく出来ているように思える。意見というものは、最初から完璧であると思わせるようなものでなければ、嘲笑の対象にしかなりえない。事実は完璧ではないし、練られてもいないので、浅い意見は多いが、それを信じる人たち、というかその意見を発信する、ネットウォーリアーを信じる人々によって、絶対視されることが非常に多い。

作品は、ソフトパワーであるべきだと思っている

個人的には、それがどういう表現であれ、作品の核になる部分には、ある種の倫理観が必用だろうと思う。ぼくは、ぼく自身という器を通して意見を述べているのであって、基本的に倫理観を崩壊させるようなものを描いているわけではない。内容が、表面的に気持ち悪いかとか、暴力的か等で、作品における倫理観が崩されるものではないし、それを納得させるだけの技量も当然必要になってくる。
コロナにおけるパンデミックがある以上、リアルでの人との交流は困難であり、ネットを見ようとしたが、ここでぼく自身の考えを発展させる事は難しいだろう。自ら思索することが最善と考えた。
ぼくは、アジアの極東にある島国の住民の一人でもあるし、この国の風土としてというか、思想としては、哲学体系はインド由来のものが色濃く残っているものと考えている。これは、現代においては、新実在論に近いものなのかもしれないが、これを持って世に問うという考えを基本的に持っている事に気がついている。無意識にそう思っていたのは、やはり、その文化の中で育った事と関係が深いだろう。以前は、言葉には出来なかったが、ぼくが追うものは、梵我一如から繋がる東洋的な目線で世に問う事を考えている。
現状、文化というものが西洋主導の中にある中、ソフトパワーとして西洋的思想に対して”他者”として問うものとすることにしている。
グローバリズムは進むのかもしれないが、新自由主義や共産主義のような強引なやり方は、本来好ましくはないと思っている。何故ならば、これらは強引であり倫理観が欠けているからに他ならない。
個人的には、ソフトパワーによる、時間をかけた対話によってのみ、今後来る危機を乗り越えられると思っている。自らが、アメリカナイズ、或いは中国ナイズされることで、世界の覇権に取り込まれる事こそが正義と考える人々は、SNSの存在によって増えたのかもしれないが、そのどちらでもない道こそが、多様であり持続可能な道なのであると思っている。

梵我一如とはいえ

ぼく個人が、作品において行ってきたことと、 梵我一如的哲学が関係があったとして、ぼくがそれをそのまま表す事は無いと言えると思う。ベースとして流れていると言えば良いだろうか?
アートマンとブラフマン(個人を支配する原理と宇宙を支配する原理)が同一であるという事に関しては、完全に同意出来るとして、果たしてこれを完全に理解する事で、永遠の至福を得られるだろうか?これを悟りと言うのだが、果たして、人間の脳でこれを完全に理解する事が可能だろうか?という問題がある。
あと輪廻の根拠として、 梵我一如 は語られるが、絵に描いたような輪廻というようなものは無いだろうと思っている。
輪廻とか因果の関係というものは、人がより良く生きるという意味では、深く考える必要がある。
例えば、ぼくがSNSの問題から、これをまともなコミュニケーションツールとしては引き離す。という考えは、SNSを実際に体験して得られた因果関係と関係はあると思う。このようにして、知的情報を得た上での結論から考えても、ぼく自身の知性は、そういう体験を繰り返しての集合体だと言える。このプロセスは、実に複雑なものなので、説明が出来るようなものではないだろう。
体はどうだろうか?ぼく自身は、食べて吸収してきたものの集合体と言える。そして、それを続けなければ、この体は、今のように維持は出来ない。死ねば、火葬されて炭化して、空気、或いは植物等に取り込まれて、別のものとして分散すると考えたほうが納得する。ただ、この考えが正しいとして、至福と関係あるかどうかは不明だ。少なくとも個人的にそれで満足だというものでは、社会における至福とは、何の関係もない。それは、これまでの歴史から考えても明らかだ。
ただ、この考えの中に倫理観というものを加えて考えてみれば、色々と違う考えが生じることになる。
聖仙とも言われた、ヤージュニャヴァルキヤの哲学が、その後仏教に伝わり、その思想が多くの人を救ったのはのは確かだろう。個人的に思うのは、ここで多くの人を救えたのは、 聖仙のごとき者ではなく、悟りを開くことは、本当は出来なかった人たちではないだろうか?つまるところ、ある個人が、新たな感覚を取得した時に得られる一時的な全能感にまでしか体験していない人たちの事だが。。しかし残念な事に、その後も人々の苦悩が無くなったわけではない。より良い社会を考える場合、色々な考えを更新していく必要があるわけだ。現代的な思想と照らし合わせて進歩させる必要がある。 ヤージュニャヴァルキヤ自身の現在に伝わる生前の行動を考えれば、「ではない~ではない~としか言いいうがない、言葉で表しようがないが、ワシは自己を知り、欲から解放されて、それによって次に自我を得る(体、つまり知覚を得る)事もなく、故に不死である。それこそが至福であり、ワシはそれを悟った。だからOK!では皆さん御機嫌よう」という態度にも見えなくもない。しかし、残念な事に、人間というのは、個人では孤独という苦悩を感じるのであり、コミュニティーというものを本能的に必要としている。感じるもの、つまり自我は苦しいのである。つまるところ、触れることの出来ない自己、自我を通し観察する者?ゲームのプレイヤーのようなもの、つまり、キャラクターからは確認しようが無い者、この例えが良いかはともかく、それが梵我一如であるとするならば、それは他者、つまり他者の自我の苦悩が続く限りは至福は得られないのではないか?考えは巡るが、少なくとも、反出生主義というものを通過することにもなるし、至福が完成するには、ブラフマン、つまりアートマンそのもの、つまり宇宙の原理も最初から無いのが至福なのではないか?という考えに至るような気がする。それらをすべて割り切れるのであれば、確かに個人は救われる(救われた気分にはなれる)のであろうが・・故に、後の新たな解釈が次々と生まれることになったということではあるが。
ぼくの悩みの一つではあるが、ぼくというものを維持するためには、他の生き物を殺して吸収する必要がある。この点から、ぼくの存在が、明らかに他者に害を与えている事には間違いはないのだ。
新自由的主義的社会においては、搾取というものが基本としてあるかもしれない。ぼく自身も、そこに倫理観が存在しなければ、ただの養分にしかなり得ないと言えると思う。
そこで、ぼく自身が平穏を得るには、多くの解消が必用だろう。そのための対話というものが必用になることは言うまでもない。その一形態としての”作品”というものを考える必要がある。

このページは、何かに気がついたら、またアップデートします。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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