写真表現の大量絶滅
なんか、日本カメラも終わるらしい。多くの、そういう雑誌は終わり、キヤノン写真新世紀も終わる。
何の因果か、ぼくは、写真表現の大量絶滅期に写真表現を始めることになったということになる。SNS、スマホ、コロナは天変地異のようなものだろう。いわゆる権威というか恐竜のような巨大な力が闊歩した時代が終わろうとしている。
逆に捉えれば、これはチャンスでもある。権威が崩れる時は、新たな価値が生まれる時でもある。かつて、写真表現以前に写真によって大量絶滅した表現がある。それが絵画だ。しかし、絵画は滅びなかった。描写という呪縛から逃れ、その表現は多様化した。世の中は、多くの価値を認めるようになった。心や存在の多様さは、多くのそういうものの流れの中で獲得されたものだ。それが、紙幣や電子マネーのような存在になるまでは。
写真は後退期になるほど、絵画がとった手法を取り入れようとしていた。見本があるから発見を怠っているのではないか?それは、ぼくにとっては、酷く古臭いものにも見えた。これは、何年前の表現のリピートなのだろう?
この世界を愛してきた人たちにとっては重要な世界。それを言うべきだろうか?とも思うが、写真新世紀の時に思った第一感想はそれだった。嫌かもしれないが、大切な事だ。表現というものは、そうして流れている。生態系にとてもよく似ている。
頭を柔軟にしておいたほうが良い。権威の前にしりごむ事なかれ。