blog,  思想、哲学

エデンの園

「信じる者は救われる」との言葉は、どことなくよく聞いた言葉だが、過去を辿れば、教えを背いたものはエデンを追放されていたりする。その後人間は苦しみや知なども得るわけだが、ここにあった、アダムとイブの選択に関する話は非常に面白いと思う。なんというか、元より、好奇心(サタンの誘惑)により、神の命に背くように仕向けられている宗教の誕生なわけだが、同時に信じよという。その後、神の命を背き続けた結果、科学という手法を人類は編み出してしまった。この過程で、多くの人たちが処刑までされているわけだが、思想信条のために命を落とすという最悪な結果を招くとしても、それを貫くという文化がヨーロッパにあったことは興味深い。

以前、親しくしていた、美術評論家の故小倉正史さんとは、こういう話もよくしていた。ヨーロッパは、思想信条のためならば命をかける文化なのだと。同時に、そのヨーロッパに対する嫌気もあったようだが、それは良い。確かにだが、そのイカレ具合は、ぼくたちには理解しがたいものだが、最低限、故郷に憎まれるぐらいでなければという言葉も、心に残っている事だ。

「故郷に憎まれることは悪い事ではない」

そこからは、孤独との戦いでもあったかもしれないが、多くの人からの教え、アドバイスをバッサリ切り捨てての思考というものに挑むことになる。膨大な知識をもつ小倉さんと、その場の思考力だけでの論戦も何度もした。今を思えば、ぼくの特性を理解した上での後押しだったのかもしれない。ぼくは、そもそも学習面で不自由なため、引用に乏しく、何かを見ると、すぐに色々と考えていたわけだ。ある作家の作品を見せて、「これが何だか分かりますか?」という、半ばテストのような事もされていたが、案外ぼくが、それが何を表しているのか?を的確に答えていた所を見ていたのだ。「一目で理解したのですか?」と驚かれることもあった。思考というものは、まず疑問から生じるもので、それは、これまで敷かれた物事、宗教に例えれば、神を疑う行為を行えということになる。信仰に背くことで思考を得る。哲学的に言えば「他者」になる事。「他者」は先人に背く者なのであり、そうすることで新たな知見を得るものということになるだろうか?(他者論)知の流動性のためには、他者が必用なのだ。永遠ではない、楽園ではない世界にいるのだから仕方のない事だ。
暗に「サタンになれ」と言われていたのかもしれない。そう後押しもされた。小倉さんがぼくに懸けたのは反芸術だった。学者としてそうしたのか、個人的感情だったのか?は分からない。小倉さんは、新自由主義に染まったアートのことを詐欺と言い憂いていた。
それから4年ぐらい経っただろうか?最後のやりとりは、写真新世紀のグランプリに関するお祝いだった。

ぼくは、小倉さんには、「ものすごく変な奴」と言われていたようだ。それは最近知った事だが、悪い意味ではないようだ。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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