
帰ってきたDSC-R1
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DSC-R1 との出会い

ぼくがまだデジカメを使い始めて間もないころの話だ。当然ながら、カメラの知識なんてほとんど無くて、購入の決め手になるのは、ほとんど「見た目」だった。そんな中で、ひときわ目を引いた奇抜なデザインのカメラがあった。それが2005年に登場したデジカメ「DSC-R1」だった。
いつ買ったのか、正確な年はもう思い出せないが、たぶん2010年ごろ、購入したのは中古。それも極上品だった。ただし、すでに「古いカメラ」として扱われていた時期で、当時のデジカメの値下がりはすさまじく、たしか36,000円くらいで手に入れた記憶がある。
そのカメラを本格的に使うきっかけになったのが、友人から頼まれたある書籍の出版用の写真だった。まだデジカメを使い始めて半年ほどだったと思うが、それまでに映像作品をいくつか制作していたこともあって、写真に関しても「センスがある」と、長く写真をやっている人たちから評価されていたのは、ちょっとした自信になっていた。
ただ、悲しいことに、あの頃と今とで、自分の写真がどれほど成長しているかと問われれば、あまり胸を張れるような変化はない。それが情けない。ぼく自身、未経験の分野でもある程度のレベルまでは早く到達できるほうだと思っているが、いかんせん飽きっぽい。その後の成長が止まってしまうのは、自分でも反省すべきところだ。

そんな R1 だったが、一度手放すことになった。理由は、一眼レフカメラ用のレンズ資金に充てるため。聞くところによれば、一眼レフと一体型のデジカメとでは、画質が根本的に違うという。それならばと、数万円のズームレンズを一本手に入れれば、「R1以上の画質」が得られるだろう、と期待していた。
ところが、実際にAPS-Cの一眼レフにそのレンズを取り付けて撮ってみた最初の感想は、「あれ? R1より劣ってる…?」というものだった。思っていたような「劇的な進化」は感じられなかった。
それから十数年が経ち、ふと当時、友人に渡した写真をあらためて見返す機会があった。すると、妙に説得力があるというか、今見ても「いい写真だな」と思えた。それで、またR1を手に入れたくなってしまった。そして、再びこの手に、R1が戻ってきたというわけだ。
DSC-R1 というカメラ

現時点で、既に20年前のカメラである、DSC-R1 の外観は、今でも非常に斬新で、ある種「異様」とすら感じられるデザインだった。ところがその一方で、意外と安っぽい部分もあって、プラスチック製のボディは、当時の中堅コンパクトデジカメと比べても質感が劣っていたように思う。実際、手に持つとボディが少しきしむ感じすらある。
だが、そうしたチープさと引き換えに得られたのが、プラスチック素材の加工の自由度だったのかもしれない。そのおかげで、R1 のボディラインは他に類を見ないほど自由で流麗な曲線を描いており、まるで工業デザインというより、生物的な造形にも感じられる。高倍率ズームを搭載したデジカメが各社から出ていた当時、その中でも R1 は特に存在感のある外観だったと思う。
そして、このカメラで最も特筆すべきなのが、やはり搭載されているレンズだ。35mm換算で24-120mm相当、Carl Zeiss Vario-Sonnar T* 14.3-71.5mm F2.8-4.8(10群12枚構成、うち非球面レンズ3枚、両面非球面レンズ1枚)というスペックは、当時としてもかなりのインパクトがあった。
このカメラは、極論すれば「このレンズがすべて」と言ってもいいくらいだ。そして、そのレンズと組み合わされていたのが、APS-C に近いサイズの21.5×14.4mm CMOSセンサー。これは当時のコンパクトデジカメとしては異例の大きさであり、画質に関しても群を抜いていたと言って差し支えない。
ぼくが普段使うレンズの焦点距離は、ほとんどこの範囲内に収まっていて、感覚的にはだいたい28mm〜135mm程度。厳密に言えば、単焦点であれば35mm〜100mmあたりがメインなので、このR1の焦点距離で問題になることはまずない。

今でこそ、「高級コンパクトデジカメ」が再評価される時代になったが、R1 が登場した当時は、デジタル一眼レフの登場と進化によって、「レンズ交換ができない」=「価値が低い」と見なされてしまう傾向があった。それに加えて、デジカメそのものの進化スピードも早かった。2010年代に入って、カメラの画質の成長が鈍化するなど、当時は誰も思っていなかったはずだ。
だが今となっては、数年では画質が劇的に変わるような時代ではなくなっているし、レンズ固定式のカメラであっても、10年は画質的に見劣りしないと分かってきた。そうなれば、軽くて高画質な高級コンパクトを選ぶというのは、実に合理的な選択肢になる。特に、撮る焦点距離がある程度決まっている人にとっては、むしろ一眼よりも理にかなっていると言えるかもしれない。
R1 は、そんな今の流れとは少し違う、もっと前の時代のカメラではある。でも、その中に、今でも通用する何かを持っている。そう感じさせる不思議なカメラだ。
巨大なコンバージョンレンズ

DSC-R1 には、「VAD-RA」という専用アダプターを装着することで、ワイドコンバージョンレンズやテレコンバージョンレンズを取り付けることができるようになっている。
ただし、このオプションレンズがとにかく巨大で、正直なところ、せっかくの「レンズ一体型」というR1の利点を台無しにしてしまうように感じる。もちろん、R1 の高画質を維持するためには、それなりの大きさが必要だったのかもしれない。だとしても、やはり大きすぎる。
さらに困るのが、レンズを装着すると前方が極端に重くなり、いわゆる“フロントヘビー”なバランスになってしまうことだ。その使い心地は、最近のミラーレスカメラに大型レンズを付けたときの感覚に近くて、取り回しが良いとはとても言えない。
せっかくの一体型カメラである R1 が、本来持っていた機動力や軽快さを失ってしまうのは、ちょっと残念なポイントだ。

ぼく自身、ワイコン(ワイドコンバージョンレンズ)は以前から持っていたのだが、コレクターズアイテムとして考えれば、なかなか面白い存在だと思う。
元々のレンズの描写の良さに加えて、専用設計ということもあって、ワイコンを装着したときの広角(換算20mm程度)の画質は、正直かなり良い。むしろ、当時の一眼レフ用の広角レンズと比べても、まったく見劣りしないレベルだったと感じている。
ただし、ぼく個人としてはこの超広角域を使う機会があまりない。だからこそ、どうしても使用頻度は低くなってしまうのが残念なところだ。いつか活躍する場面が来るかもしれないが、今のところはあまり思いつかない。
とはいえ、このワイコンを装着したR1の姿を見ると、妙にロマンを感じてしまうのも事実だ。おそらく、当時これで「一眼レフに対抗しようとしていた」という背景があるからこそ、その佇まいに惹かれるのかもしれない。
撮影してみる
まず、結論から述べておくと――DSC-R1の低感度における画質は、今でもさほど問題にはならないだろう。
気になる点があるとすれば、やはり諧調の面でやや劣るということになる。ただ、解像感に関して言えば、これはかなり高いと言える。1000万画素とは思えないほどの解像力があり、もう少し高解像な機種と比べても十分に対抗できるレベルにある。
もう一つ、美点として挙げられるのが、その「諧調の狭さ」に最適化されているという点だ。今日的なデジカメ画質――たとえばPENTAX K-5やNikon D800あたり――からが、「現代の画質」と呼べるラインだと考えているが、それらと比べてしまえば、DSC-R1はダイナミックレンジの面で明らかに劣る。
とはいえ、この「劣る」は、単にネガティブな意味での劣化ではない。むしろ独特の絵作りに繋がる要素でもある。発色や諧調の描き方が、今見てもインパクトのある画を生み出す。これは「RAWでどうにかなる」といった話を超えた部分であり、もはや今のセンサーとは別物――例えるなら、まったく違うフィルムで撮っているような印象を受ける。
その違いは、明確で、味わい深いものだ。
室内/照明あり
以下の写真群は、クリックで等倍鑑賞可

室内で照明を使い、うちのコイネズミヨウムを撮ったものだ。現行機では、このような感じで撮ることは非常に困難だ。何度か試したが、どうやってもこんな感じにはならない。
現像には、RawTherapee を使用した。DxO PhotoLab 等のソフトで使えたならば、更にノイズレスで、高感度も使えるものになるだろうが、対応していない、だが、逆に、この粒子感は、今や写真として好ましいとすら感じる。
野外

野外は、白とびに注意する必要はあると思う。そういう意味では、早朝や夕方はシビアな撮影が必要かもしれない。
この写真を等倍で見てもらえば分かるが、解像が見事だと思う。色も独特な雰囲気だ。

建物を正面から撮った。
画質の均等性は、当時のズームレンズとしては非常に高いことが分かる。

ND1000フィルターを取り付けて撮影してみた。絵画のような写真が撮れた。

倉庫一つ撮っても、妙に存在感のある写真になった。空気感も悪くない。

極端な逆光でも撮ってみたが、意外にも粘ったと思う。
作例
今後何かを撮ったら、ここに作例を増やそうと思う。


感想

久しぶりにR1を使ってみたが、このカメラ、画質的には今でも十分に通用することが改めて分かった。今のカメラと比べての「差別化」という意味でも、このR1は作品撮りにも十分使えると感じている。
かつては一度手放したカメラだったが――今後、もう手放すことはないと思う。なぜなら、このカメラでしか出せない画質というものを、いまの自分はきちんと理解しているからだ。
そして、1000万画素という画素数も、今となってはPCのハードディスクに負担をかけるようなものではない。個人的には、「十分な画素数」というのは、1000万画素あたりから、だと思っている。
以前、キヤノンの「写真新世紀」で業務用のプリントをしてもらったときのことだが、1000万画素程度でも、A1サイズの引き延ばしにしっかり耐えていたのを覚えている。何かしら補完処理が入っていたのかもしれないが、それでもなお「使える」と実感した瞬間だった。
そう考えると、本当に必要なのは「画像の質」なのかもしれない。
今後も状況に応じて、このR1をうまく使い分けていきたいと思っている。
