うつ病 見える世界 聞き取れない分節
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うつ病の発症と無分節
2017年末に、うつ病を発症した。この時感じたことを思い出したが、その時の苦しみは、人生の中でも経験したことの無いもので、それが映像制作に関係したものであったことから、その後映像の本格的な制作をやめる事になった。
痛くも痒くもないのだが苦しい。精神の状態からか、2018年の年初めに極度の頻尿になり、数分おきに尿意に陥ることから、酷い脱水状態に陥り、救急搬送先で点滴を受けた。しばらくして、他の病院に移り、診断を受ける事になるが、他人が喋る事を聞き取るのも異様な苦しみであり、聞き取ることを避けた。そして、病院での診断時、質問をされるのだが、「言葉」をまとめる事ができず、簡単な単語でのみの返答、それすらも途中から困難になり、言葉そのものの意味が消失しつつあった。診断されたのは、大うつ病だが、ぼくの症状がそれに該当するのかどうかは、今でも分からない。こればかりは、個々の体験にもとづくものであり、この症状が何だったのか?に関しては、ぼくにしか分からないものなのだ。
ここで感じた事だが、痛みも何も分からず、「苦しい何か」はどこにあるのかは分からなかった。この世界のどこかに、それはあるのだろうが、それを感じる自分がいるだけなのであり、それは「脳」とも「神経」とも「その他の臓器」とも「手足」とも言えないのであり、何らかの境界、「分節」などは希薄であり、そういった世界には「意味」などは無く、そこには「何の救いも無い」のだ。
ぼくたちが認識する世界には、本来意味的には何も無いのだが、そこに安心感を得るために「分節」としての「言葉」がある。
「苦しい何か」は、この世界のどこかにあったのだろうが、それが目に見える形でどこかにあるのかどうかは不明だ、それを認識することはできないだろう。
美しさ
「色」についても同様で、それが「美しい」ものなのか?に関しては理解しようもない。それは、社会から与えられた意味にすぎないのだからそうだろう。そいうえば、幼少期から、花は美しいものだと聞かされてきた。ぼく自身は、そもそもASDだったので、そういう価値観は無く、単純に「花」という認識があるだけだったし、興味の対象ですらなかった。現在も、何が美しいのか?に関して言えば、どのようなものがそうなのか?はよく分からない。しかし、ニュアンスとしては、多くの人が言うパターンとして、「それが美しいという事なのか」とは理解していた。物体的ではないが、一つだけ、確実に美しいと感じるものがあったのだが、それは「諧調」であった。諧調そのものは無段階であり、特定パターンがあるわけでもなく、物体そのものを指すものというよりは、光による現象そのものだ。
ただ、その美しさすらも、うつ病は奪うことになった。ぼくの中に内在する「何か」の要素でしかなくなる事になったのだ。
独房
急性期の大うつ病だと、強制的に入院となる。症状が重いと、壁と畳とトイレしかない独房に入る事になる。自殺防止のために、ズボンのひもも抜かれることになる。この極めてシンプルな状況は、情報の遮断、特に「意味」を回避する上で有用で、経験則からであろうが、退屈な状況が脳の回復のためには良いのだ。うつ病になって感じた事として、思い出すのは、とにかく時間が長い事だ。「分節」により「意味」をつけられた世界の時間は短い。大人になってからも感じる事だが、歳をとるたびに時間が極端に短くなるが、それはものを「分節」し「意味」をつけ、それを蓄えてきてきていることも関係あると思われる。その「意味」に任せてしまい、それ以は上気に留めることも無くなるのだ。それだけに、そういったものが無意味化したした時間というものが、体感として如何に長いかを感じざるをえなくなる。更には、情報を遮断され意味付けできるものも特に少ない空間では、その時間は更に長くなる。1時間は一日のよう、いや、もっと長いかもしれない。
時間をかけ、徐々に回復するも
情報遮断により、脳は徐々に回復してくる。が、以前とは何かが違うと思う。この世界に、実は救いが無く、実のところ意味などないことを強く知ってしまった。おそらくは、それが、この世界に対する認識としては、より正しいものなのだ。
そして、回復してきたとはいえ、脳の体力のようなものは低く、絵をまともに描く事もままならない。楽に描く事はできない。
そこで、そういった身体的能力をそこまで使わない写真表現を試みることにした。それが、とても好きだからというよりは、その時できることだったからだ。今のところ、それらの写真一枚一枚は、ものの意味として「分節」された状態になっている。究極的には、写真のフレーミングは、性質上その「分節」から解放されうるものでもあると思っている。それが「写真」であるかどうか?からも解放されて、やっとぼくが求めた「何か」?になるのではないか?それがいわゆる「写真」らしいものではなくても良いし、その世界のローカルルールに捉われる必要もないだろう。最終的に、「そうだったのか」ということが分かれば少し良いと思えるのかもしれない。何が良いのか?は分かることもないだろう。
仮病
現在、ぼくは、治療のためにグループホームに入所している。大したことはできないが、仮病ということにして今の状況から抜け出そうと思っている。外を見ようとしたとき、カーテンに映った影を見て、なんて美しいんだろうと思った。ぼくは苦しみを認識し、目の前の現象である模様の美しさを認識する。そもそも、どちらにも意味はない。さらに、美の対象である現象自体にも意味はない。ぼくが見ている世界は、ぼくが認識しているものに過ぎず、そもそも存在しないのである。そして、言葉で分節された題名に意味を見出そうとする人々がいる。病は、ぼくにそうささやいた。
I am currently in a group home for medical treatment. As such, I can’t do much, but I am trying to get out of my current situation by calling it a temporary illness. As I was about to look outside, I saw a shadow on the curtains and thought how beautiful it was. I recognize suffering and I recognize the beauty of the pattern that is the phenomenon. In the first place, there is no meaning in either. Furthermore, the phenomenon itself, the object of beauty, has no meaning. The world I see is only what I perceive it to be, and it does not exist in the first place. Then, there are those who try to find meaning in the situation that is separated by a title. Illness whispered to me that.