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言論・表現の自由

最近関わってきて気が付いた事だが、ラップとかで言うところのディスるって考えてみれば重要だよね?これは持たざる者が持つ者への抵抗としての一つの手段だ。

何が言いたいかと言えば、今でいうところの、みんなに優しい表現とか、人の嫌がる表現はやめようとか、そういうのって”持つ者”の都合もあるように思えるんだよね?そうすれば恐れるものも無くなるじゃない?当然腐敗もする。そもそも持つ者はスタートの時点で違うし、では何をもって格差を埋めるのか?努力?

考えてみれば、言論というものも、そういう感じで衰退したと思う。それが行き着く先はおのずと暴力になるのは歴史的に見ても起こりえることだろう。良い悪いではなく起こるということだ。差別対象を、他に設定したとしても、ごまかしきれなくなる臨界点があるということだ。

写真とか関わって分かったことだが、この世界は随分と制度化されていて、特に広告に支配されている分そういう部分に乏しいと感じた。制度化が進む事による問題としては、既に周知の問題であり、皆が言っても大丈夫な問題、つまり言ったところで大した影響はない問題しか取り扱いにくくなるという問題があると思う。これは映像にも言えることだけど、プロパガンダとして利用されやすいメディアである分、本来ならば、やっている側が率先して意識していかなければならない部分だったりすると思う。

パートナーに聞いたが、残念ながら、ぼくは制度の犬に攻撃されていたらしい。個人的には言論表現の自由を守る立場から言いたいことは言うし、作りたいように作りたいが、事表現という立場から考えれば、何ら敵対行為を行っていないにも関わらずだ。ともかく、制作やそういう主張に関しては、ぼくは真面目な部類だと思っているし、スタンスを変えようとは思っていない。制度そのものが、持つもののみを味方するような動きをとるならば、ぼくは反芸術的立場をとらざるをえなくなる。分かるだろうか?

本来ならば、言論表現は自由でなければならないものだが、そうではない事を押し付けようとしていたようだ。まぁ社会的風潮に乗った、ある種の現象かもしれない。

とにかく、この10年ぐらいで言論的なものが排斥されて、そういう意味での表現の自由というものは、実質的には失われてきたように思う。

それは、嘘とインチキによって招かれたと理解している。洗脳という手段を持ってだ。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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