映画 短編集 さりゆくもの
昔から、映像時代には、随分とお世話になった、映像作家の小口容子さんが、岡山に来るという事で、この映画を見に行きました。
映画 短編集 さりゆくもの
内容はといいますと、短編集ということになるのですが、サイレントムービーから、普通の劇映画、ホラー映画、ドキュメンタリー映画、モキュメンタリー?風実験映画と、色々なタイプが盛りだくさんです。
あと、これはヤバいとも思ってしまったのが、人が死にすぎじゃないの?ということ。劇中というよりは、リアルで亡くなられているという感じで、まさに、”さりゆくもの”という感じなのです。
作品全体からの念は強く、何となくだけど、こういうことは、制作においてはありうる事なのです。経験上もそうで、ぼくも死にかけた事があります。作品に飲み込まれるとでも言いましょうか・・
ぼくに関しては、未だに体調は悪く、今日も左半身が痺れていたのですが、まぁ、人に会うのも、コロナの関係でままならなかったし、なんとか頑張って行きました。途中から、毎度の左側の強烈な頭痛に襲われたものの、なんとか最後まで鑑賞できました。
小口さんには、イメージフォーラム・フェスティバル2007 以来の恩があるのですが、実のところ初めてお会いするとはいえ、ほたるさんともある作品で役者とアニメーション作家ということで参加もしていたような気がします。ぼくの記憶に間違いが無ければ、山崎樹一郎さんの”新しき民”だったと思います。世の中狭いのです。ほたるさんは、ぼくの作品に関しては見られていたようで、周知でした。ありがたい話です。
さて、作品について言いますと、最初のほたる監督作品”いつか忘れさられる”と小口容子監督”泥酔して死ぬる”が印象に残っております。
”いつか忘れさられる”に関して言えば、フィルムで撮影されたサイレント作品だと思うのですが、その陰影と色が、単純に映画として美しいのです。何気ない日常の風景の中にある死というものを通した詩的な作品、見逃しがちな何気ない日常の色や人々の動きというものが、実は尊いものなのだという事に気がつかされる絵だと思いました。
何とも思わない風景を、いつか悲しみの中で思い出すときはくるのだ。ただ、その時がくるまでは、何も感じずに人は生きている。どうなんだろう?途中まで退屈なのか?と思わせる映像は、ある段階でそうではなくなるのです。
たぶん、誰にでも起こる事ではありますが、多くの場合は、それを見過ごして生きているわけです。見過ごせなくなった時、それは美しく脳裏に蘇ったりするのかもしれません。それを、あらためて映像に残す事には意味があると思います。後にでなく、現在を尊いものと感じさせるという意味も含めて。そして、映像を強調するという意味で35mmフィルムであり、サイレントであるという意図は、とても理解しやすいものでした。
ぼくたちに馴染みのある、日本的な家族風景や食事風景、遺影など、家の中にあるもの。あらためて、ぼくたちの文化とは何なのか?とも考えたりしました。
”泥酔して死ぬる”に関しては、毎度の事ながら、監督である小口容子さんが脱いでいるシーンから始まります。というか、作品の中のどこかで彼女は脱いでいる印象があり、それを自らに課しているという、一種の戒律のようなものを感じます。というか、いったい何歳まで脱ぐのでしょうね・・ある種の社会的なものに対する反発行動ともとれ、一種の社会運動ともとれなくもありません。というか、芸術運動的目線から見れば、そうだと思っております。フェミニズムだとしても、社会における、女性と年齢の関係といいますか、歳をおうごとに体を張ってる感が増すものになりますし、ステレオタイプなものとは異なる雰囲気を感じます。少なくとも、ファッションフェミニズムではないということ。
本題から言えば、実話とファンタジーを織り交ぜた、ドキュメンタリーとモキュメンタリーと芝居の融合体であり、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか?ということになります。
事実として、脳梗塞になられたのは知っていたのですが、その件から、飲酒を反省し、断酒を決意、そして酒豪のところに、断酒の方法を聞きに行くも、奨められて、また酒を飲んでしまい、ここからラスト、アニメーションが入るのですが、ここで出てきたアニメーションは、明らかに三ツ星レストランの残飯氏によるものであり、秀逸だと思いました。スパイスになっており、人によっては、ただただ不快であろう事も含め、脳髄を刺激する内容でした。不可解による不快や不安というものが、生存本能により、ある種の想像力を生むというのは、人間が自然界で生きていく上で獲得した能力であり、それは言語以外の感覚による創造性を生み出すものだということを忘れてはなりません。
ぼく自身は、写真作品をやるにつき、小口容子さんの、事実とファンタジーを織り交ぜて、作品から危うさを漂わせるという手法は、もしかしたら影響を受けているのではないかとも思っております。というのも、ぼくの最初の写真作品である”蟻のような”は映像化を断念して写真化したものですが、写真としては、事実とファンタジーを混ぜたものであり、そこからより強力な真実を導き出そうとするものでした。ぼくは、そこから危うさというものを出そうとはしませんでしたが、写真家のリネケ・ダイクストラさんに指摘された、ドキュメンタリーとファンタジーの融合体の成功という話を聞いた時、小口容子さんの顔が脳裏に浮かびました。
そして、当時ぼくが見た小口さんの作品、”ワタシの王子”は、イメージフォーラム・フェスティバル2006でグランプリを取ったのであり、ぼくの”蟻のような”が、キヤノン写真新世紀2019でグランプリを取ったのは偶然ではないような気がしてならないわけです。
余談ですが、ぼくはまだ映像作品を作りたいとは思ってます。ただ、原因不明の強烈な左側の頭痛と、左半身の痺れなどありまして、たぶん生命に関わるので、今のところ無理です。
しかしながら、回復しましたら、また皆様と、ご一緒したいですね。