無分別知という言葉を無意識に覚えているが
”無分別知”という言葉について、特に勉強したわけではないが、頭の片隅に常にあって、この事がぼくの制作に何らかの影響を与えてきた。おそらくは、仏教などでは使われる言葉だとは思うが、由来は明らかにインドという雰囲気が漂う言葉でもある。 東洋哲学的に、分別知というのは言語的知識や思考によって理解出来る知の範囲を言っていたと思うので、大まかには似たようなものだったと思う。
スイスの言語学者であるソシュールによって、”言葉”というものが”分別”であると、西洋においては知られているが、それは1900年代初期だったように思う。
少なくともインドでは、その件に関して言えば、紀元前には知られた話であるし、その事に気がつくまでの差異がそこまで広がってしまっている事に関しては、自然界に対するものの観方と大いに関係があるような気がする。
ぼく自身、絵画教室などで教えていることだが、”モノ”というか、目の前に感じる知覚を”絵”として表すとして、まず基礎として、言語(分別)を止めるように言っている。何故なら、言語とは、単純化された分別のあり方であるし、それはシンボルを表す、いわば情報簡略化の権化のような感覚だからだと言える。他の感覚によって知を得るには、その性質が邪魔をするのは言うまでもない。何故なら、ぼくの専門である視覚芸術においては、その体験の再現という事が基礎として重要になっている、というか、これからの時代はそうなるべきだと思っているからだ。対比的なリアリズムの表現としては、ルネサンスあたりからの解剖学による描写等があるが、ここまで書くと分かると思うが、それは分別の細分化に他ならないからだ。現代の哲学において、言語が分別であると言っている以上、そこではない領域を、他の感覚は探求する必要がある。
実は、日本人にとって言語、つまり分別ではない”知”に関しての違和感はなく、それは唯一神信仰ではないことも関係があるような気がしてならない。
そもそも、東洋においては、ものの見方は内的であり、その内的なものが自然界の中に含まれるという感覚は、それほど怖れられるようなものではなく、無意識に受け入れられていたりする。それだけに、自分たちが何を考えているのか?に気づくために、例として西洋的思想が役に立つというのも確かだ。
西洋においては、一神教が支配的であり、その教えからも分かるのだが、彼らは本能的に、”人間”と”動物”を分けて考えているところがある。それが同じものであることを怖れているとも言える。それは進化論に対する反応から考えても分かりやすい。おそらくは、東洋においては、進化論は当たり前すぎて、「ああそう、それで?」というぐらい受け入れやすいものだったのではないか?
そのせいなのか、現代の西洋の哲学を見ても分かるのだが、実在論に関しても、人間と動物は分けられており、所々で、いわゆる神様が思考の邪魔をしているのではないか?とすら思えることがある。ぼくが、動物を観察するかぎり、彼らは思考しており、種によっては自らの存在をある程度理解しているように見えるし、人間のそれは、進化の過程で受け継いできたものという感じに見える。 その、人間と動物との仕切りのようなものは、自然を征服するという意味で、より進歩した文明を築いてきたことは確かだが、それは、現代においては、少々厄介な事になっているのも事実だ。 もちろん、環境破壊という現実がある。
もちろん、ぼくたちと彼らが、同じ感覚、つまり知覚体験をしているとは、まったく思っていない。当然ながら人間同士も近いだけであって、同じ知覚体験をした人間というものは存在しないはずだ。物の色に関しても、暗黙の了解で赤だとか青だと言っているだけで、おそらく同じように見えている人はいないはずだ。注射を打った時の痛みも、ハンバーガーを食べたときの味も異なるのは、美味いという人と不味いという人がいることからも明らかだ。
ここで分かることだが、その体験から、ある人は美味いハンバーガーを表現するのであり、ある人は不味いハンバーガーを表現するのである。それは、どちらが間違っているという問題でもない。
ここまでに、写真を何枚か貼ってきたが、無分別知によって撮ったとは言い難いところがある。ぼく個人はそうしたいのだが、写真というものは、絵画よりも、より”言語”に支配されやすい表現手法なのではないか?ということに、最近薄々気がついている。
簡単な事で、撮るものに関しての多くは、ぼくたちが分別可能なイメージに収まっているからに他ならない。
言葉による分別から逃れるためには、他の要素が必用になることは間違いない。
現状、言語的にというか言語哲学的に変換することで、無分別知というものを表すのが、今のぼくに出来る最善の方法と言って良いかもしれない。或いは、複数の写真を並べることで、そこにはない感覚を呼び覚ますという何らかの方法。
少なくとも、知覚的に再現する絵、以前に、明らかに、より客観的な手法で、人間の視覚に分かるように再現されているのが写真とも言える。ただ、それは、それを操る人そのものに、言語ではない感覚の存在を体験させるというプロセスを省いているだけに、言語による支配は大きいと言える。
東洋的アプローチを考えるのであれば、体験というものは非常に重要な要素だ。東洋においては、知識だけでは知っている事にはならないのは、何となく理解できるところだろう。故に、修行や荒行のようなものが生まれているとも言える。対して、西洋においては、知識があることで、理解しているという面が強いと思う。ある意味合理的で、体験を省ける分、歴史的な哲学体系等を学んでいく時間の余裕が出来るかもしれない。これは、作品においても、おおまかに二つの道が少なくともあることを示していると思う。
撮影者が、それから逃れる事は困難だが、絵によって知覚の存在を知る者にとっては、なんらかの方法を考えたいというところがある。
これまでに並べた写真に連動性は無い。
連動の方法は、色々と考えられるが、今回はそれをしない。
あるものは、窓からの風景であり、あるものは、食事の時に見えたものであり、あるものは薬が落ちている絵なのでであって、これで深い意味が生まれるわけではない。ここでは、言葉で分別を試みているだけである。
ぼくが、分別にこだわるのには理由があるが、その問題そのものが、現代の問題だと思っているからに他ならない。分別に表せない何かによって、この世界のある種の仕切りが無くなるのであり、そこから得られる共感こそが、現代の危機を救いうるものだと思っている。