blog,  思想、哲学

表現の立ち位置、蟻を眺めながら考える

蟻の社会は全体主義ということになります。

蟻を飼い、作品を作る以上は、その性質と人間社会との差違を考える上でもこういうものが重要になってくるわけです。

とはいえ、今年はあまりにも忙しく、冬になるまでは読めないわけですが、確認として知りたいことがあるので読むことにしました。まぁ冬ですけどね。

思想というものをマーケティングとして捉えた場合、ビジネス右翼というものが如何に顧客を獲得しているか?本屋を見れば分かりますが、そういうことです。

今はそういう時代だということでしょうかね。

インテリぶり実務を怠る言論というものの責任は大きい。それは表現にも言えることで、いつしか、表現というものは企業や国家というものに寄り添う事こそが正しいということに刷り変わろうとしていると思います。名指しは避けますがそれを公言する人間を表現世界の中で確認しております。それがどのような深度で行われるのか?はさておき、マーケティングの獲得を考えた上での発言であることは理解しております。しかしながら、これをシンプルに表すとするならば、それは力と表現というものは結び付くべきだという考え方に見えるわけです。これが、如何に危険かについては、実のところ多くの人に理解してもらうべき事なのだと思っております。ぼく個人の意見を述べると、力は利用したとしても寄り添うようなものではないという感じでしょうか?

ぼくは、半年ほど取材を受けていたわけですが、「蟻の社会は見習うべきものがありますね?」という、ある種のテンプレ的質問に対しては、YESとは答える事ができませんでした。置き換えとして言えることですが、例えばぼくのような発達障害を抱える人間がその社会で生きていけることはないということです。

蟻という生き物は、完全に合理主義の中で生きていて、その全体主義の中でいきる以上は、社会の拡張というものが種として行われないかぎりは、不要なものを養う事は無いということです。種そのものが進化して置き換わるときまでそれは無いということですね。現状の蟻の社会を見習う点というものが、もしあるとすれば、それは今の自然界に馴染む、程よい強さという感じでしょうか?

ほとんどの人は多様性という言葉を使うとしても、その重要性というもの関してはあまり考える事はないでしょう。

人間が種として進化する可能性は低いと思います。或いは、富める者だけが、自らの子孫を改造することはあるかもしれませんが、、そういうことが無いとして継続として考えられるのは、社会的な進化や知の進化ということになるのではないかと思ったりするわけです。そういうものを進化させながら疑似的に種というものを置き換えると言いますか。それが出来ないのであれば、生態系の中に人間が残るということも無いということです。現代の地球そのものに合った存在では無いということで。

2017年ごろまでアニメーション等の映像作家 その過酷さから病気に倒れ、限界を感じた事から、その後写真作家に転身 イメージフォーラム・フェスティバル、バンクーバー国際映画祭、オーバーハウゼン国際短編映画際、タンペレ映画祭、キヤノン写真新世紀 LensCulture 等で発表。 写真関連は、初の写真作品で、キヤノン写真新世紀2019年度グランプリ受賞。東京都写真美術館で個展、LensCulture Art Photography Awards 2022 LensCulture Emerging Talent Awards 2023 にて Jurors’ Picksなど NHK ドキュメント20min.「蟻(あり)と人間とぼく アーティスト・中村智道」で紹介される 尚、写真等の無断使用はお断りいたします。一言ご連絡ください。 お仕事のご相談など、気楽に、ご連絡ください。 e_mail:nakamura.tomomichi@gmail.com

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