
言葉は変わらない、しかし人も世の中も変わる
ぼくは過去を懐疑的に見ることが多々ある。その昔は、過去というもの、つまり「文字化された言葉による記録」というものをそれなりに信じてきてはいたが、世の中の変化は速い。それをしていては、ぼく自身が取り残されるのだと、何時しか気づく事になった。
哲学的にも、西洋では最近、東洋では大昔から言われてきた事だが、言葉というものは物事を「分別」するものであり、「固定化」するものであり、それによって、あらゆる物事の境界というものを分けるものだった。当然ながら、物事には、光の部分もあれば、影の部分もある。そこから導き出される事は、ある言葉による分別というものを刷新するのか、維持するのか?それにより社会というものは変化してきたり、残すところは残す事をしてきた。刷新するにも残すにも、それに相反する力が必要だ。それは意見の対立でもあるが、世の中には、完全に正しい「言葉」というものは無いのかもしれないと思っている。それだけに、ぼくは、言葉による「分別」によって、つまり制度によって成り立つ、この世の中あり方は、果たして良いのだろうか?と疑いをかける。
ぼくは、制度的な意味での「障害者」であることを、ある意味受け入れている、理由は簡単で、今の世の中は制度的にそのようにできているのであり、ぼくのようなタイプの人間を「健常者」として扱うことは困難になってきているということだ。それは、自ら数十年「健常者」として生きてきて骨身に染みて分かっていることだ。
ぼくが、事実上できないことは、けっこう限られていると思う。重要なのは、「言語」の学習障害が視覚、聴覚ともにある事に尽きる。他にも、過集中などの問題もあるが、それは、今の世の中を生きる上では、それほど大きな問題にはならない。ぼくは、生まれつき「言葉」に関して、異常に弱いのである。「言葉」に弱い事は、現代のような言葉で構築された社会では最悪なレベルで弱いとも言えると思う。
このように文章を書いているではないか?と思われるかもしれないが、それはPCという手助けによって可能になっている。ぼくが、言葉の性質である意味の固定化というものを理解したときから、こうした文章に関しては、前後を見ながら書くことが可能なのだ。なぜなら、「文字」は書き換えるまでは意味が「固定」されているからだ。約束事、つまるところ契約などに文章が有効なのも、この性質を持っているからだ。
この事を初めて理解して書いた文章は、写真作品である「蟻のような」からであり、ここで文章を書く力は飛躍的に伸びたと言って良い。
話は、ぼくが「障害者」である事に戻るが、おそらく、ぼくが今から100年前に生まれているならば、制度的にも、世間的にも「障害者」ではなかったのではないか?ということを想像する。今の世の中は、言葉の枠組は過去よりも複雑なのであり、社会のシステム化のためにも、合理的に物事を細分化して体系的にすることを求められているように思う。その細分化された、つまり言葉により「分別」された枠組みの中に、ぼくに合うものが無い事が、ぼくの生きにくさの現況でもあるように思える。制度上、適合するのは、「障害者」という枠組みなのだということになるだろうか?
そうこう考えるうちに、ぼくとは異なる性質を持つ「精神」の持ち主について考えることになる。現代社会の都合上、障害者であろう人もいるかもしれないが、そうではない人もいる。現代社会における制度への導きというのは、巧妙なところもあり、それは「福祉」なのであり「してあげている」のであり、それは善行なのだと扱われたりもする。実際に、疑うことなく、善行として、それに参加している人もいるだろうし、それを否定するところではない。
ただ、過去のような差別主義なのではなく、反発としての何らかの力が必要だろうと思うところがある。ぼくが持ち得た力の一つとして、視覚的なものというものがある。ぼくは、その力によって、ある種の「分別」からの開放というものを想像することがある。「分別」をする「言葉」「文字」によって作られた枠組みの刷新を促すイメージというものを考えている。どうであれ、ぼくも、これを読んでいる皆さんも、この世の中に同時に生きている事は間違いのない事だろうと思う。今を生きにくい人を「自己責任」で片付けるのは安易だが、自らの生きる枠組みが、ある日無くなる事を想像してみてほしい。それは、誰にでも起こりうる事なのだ。
ぼくたちは、もしかしたら、細分化された牢獄を作っているのであり、それに適合しない人間は弾かれるような現代を造り出してしまったのではないだろうか?事実、そうなっているように見える。
「そうではなくて」を想像することが求められると思ったのは、ぼくの人生がそれを思わせる人生だったからなのかもしれない。

